届かないNEWSがあるとしたって
わたしはテレビを持っていない。
高校生の頃までは、家に居る時間のほとんどを、テレビを見ながら消費していた。
芸能界のゴシップはすべて知っているくらいにはテレビっ子だった。
大学2年くらいのときに、読んだ何かの本の中に「テレビを見る時間を本を読む時間に充てろ」と書かれていた。
今思うとそれは正しい一方で、作家だったり本を出版してる人たちが読書人口を増やして自らの食いぶちをどうにか繋ごうという側面も少なからずあるんじゃないか、と思うが、斜に構えることを知らない、当時素直だったわたしは、吸収力の良いスポンジのようにその教えをしっかり守り、その日以来ドキュメンタリー番組かなにかしらのスポーツ祭典を観るとき以外はテレビをつけなくなった。
社会人になる際の引っ越しではついにテレビを新居に持っていかず、物理的にテレビが存在しない部屋に住んでからもう2年以上になる。
もちろんときどきは不便に思うし、つい3か月くらい前には「やっぱ買おうかなー」なんて思って家電量販店をうろうろしたりもしたが、残念な金銭状況も手伝って「よし、買うぞ!」と即決できぬうちにその熱も冷めて来た。
この前薦められた、江國香織さんの「とるにたらないものもの」というエッセイを今日何気なく読んでいると、こんな一文があった。
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望まない場所にいたくないのだ。
推理小説を好きになった時期と、テレビに我慢ならなくなった時期が一致するのもそれで辻褄が合う。
望まない情報にさらされることが苦痛であるという臆病かつ我儘な精神。好奇心のない子供みたいだ。
でもたぶんそのせいで、私は日々健やかに機嫌よく暮らしている。
大事なことだと思う。
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これだー、と思った。
テレビは朝から夜まで休むことを知らず、新しい情報をわたしに教えてくれる。
どこどこの市で殺人事件が起こったとか
あの政治家が汚職事件を起こしたとか
清純派芸能人が不倫してるよとか
「そんなことする人だと思わなかった」という犯人の近所の人のコメントとか
ぺちゃくちゃ今年はどの夫婦が離婚するだろうかって予想してる芸能人コメンテーターの声とか
いっぱい
いっぱい
止むことなくわたしに情報のシャワーを浴びせてくる。
そして、そのうちの大半はネガティブなものだったりする。
わたしはきっと、いつのまにかそのシャワーに疲れていたんだと思う。
無責任なのかもしれないけれど、そんなもの受け止めてられっかって思ってたのかもしれない。
わたしのしあわせは、わたしが決める。
そしてわたしのしあわせは、身近なところから始まる。
わたしの喜怒哀楽も、世界では取るに足らず消えていくような、ちいさなちいさな宇宙の中に存在している。
久しぶりに友達に再会できて他愛もないおしゃべりをしてうれしかったり、
新しい服を買えて明日が来るのがいつもより待ち遠しくなったり、
うまくいかないことがあって頭も心もぐるぐるしたり、泣いたり、
でも道端で咲く一輪の花に何か勇気をもらえたり。
そんな小さな出来事の積み重ねでわたしの人生は回っている。
それらに敏感でいたい。
自分で自分に、たくさんのNEWSを運んできたいな。