ここではないどこかではなくここで

1年ほど前だろうか。

自分のキャリアについて色々考え始めたときに、

拠点をどうしようかとなって、私は東京に行こうと決めた。

 

ライターとしてキャリアを積んでいくのであれば、東京の方が確実にチャンスは多い。

「東京に行った方がいいよ」という助言も多く、今や東京の方が友人も多くいるため、迷う余地はなかった。

 

社会人1年目の最初の配属先が東京だったが、

色々重なったりなんだりで会社に行けなくなり、

「環境を変えてもっかい頑張れ」という人事の配慮で、半年弱でそこを去り大阪の本社に帰った。

だから、正直仕事面で東京に対しては苦い思い出が多かったけれど、

再度東京で仕事にチャレンジできるならその思い出を塗り替えるチャンスだ、と

だから今度は30歳くらいまでは東京を拠点にして頑張ろうと思っていた。

ちょうど私が30歳になる2020年に東京オリンピックも開かれるしね。

 

そして、今年の夏頃。

ちょっと色々な理由が重なって、関西をすぐに離れるのが難しくなった。

自分でコントロール不可能な理由もあったりで、最初は戸惑ったし、どうしよう・・・というのが正直なところだった。

 

で、色々と悶々と考えながら散歩していたら、こんな言葉が降ってきた。

 

「私はなんで、こんなに東京に行きたがってるんだろう」

 

その言葉は何度も私の中を反芻した。

憧れの街へ行きたい理由を問うてみると、あんまり確かなものは浮かばない。

 

大きかったのは、「ここではないどこかへ」という気持ちだった。

夢を持ちつつも、変わらない日々を過ごし、変わるための行動をあまり起こせなかった自分が好きじゃなくて、場所が変われば、環境が変われば、私は違う何者かになれると思っていたのかもしれない。

 

そんなことを考えてギクッとしているとき、くしくもちょうどSNSなどで「関西ってやっぱいいわー」みたいなコンテンツを見聞きすることが多かった。

 

一番心打たれたのは、尊敬するライターさんの一人でもある塩谷舞さんが書いたこの記事。

bokenai-osaka.com

 

これを読んで、心の底から「ああ、私大阪好きやなあ」と思った。

その瞬間には、土地にこだわり、「東京に行かないといけない」「このまま大阪でいたら何も変われない、前に進めない」といった強迫観念めいたものは無くなっていて、すごくポジティブに「ここ大阪で、関西で、頑張ろう」って思っている自分がいた。

 

四国の田舎から、大学入学と同時に関西に飛び出してきた。

大学1年のとき、とても日々がつまらなかったけれど、一歩踏み出したりいろんな人に会ってるうちに、気が付けばかけがえのない人たちに囲まれていて、宝物のような大学時代を送ることができた。

社会人1年目。東京で挫折して、後ろめたさを感じながら関西に戻ってきた。

でも、いろんな人に支えられて、そこで一つひとつ仕事を達成していくことで、自分の自信を取り戻せた。

 

関西は、私にとってとても大事な場所。

「東京に行けないからいる」ではなく「関西にいたい」「ここで頑張りたい」って思えた。

 

「自分を変えたいなら住むところを変えろ」という言葉があるくらい、何か新しく始めるときや自分を変えるときに、土地を変えることは非常に有効だと相変わらず思っている。

それに、1年後3年後5年後に、私がどこでいるかなんて正直わからない。

 

でも、今私は関西でがんばる。

大好きな土地で、慣れた土地で、散歩してるだけで幸せになるようなコースが近所にある大好きな今の家で、ここではないどこかではなくここで、自分を好きでいられるように私は頑張る。

 

この1年間ほど、「そのうち関西を離れるかもしれない」という割には新しい場所へ足を運んだりすることに億劫になっていた。

新しい友達が欲しいなと思いつつも、すぐに東京に行くかもしれないしなと思って、積極的になれなかった。

 

そうしたたがを外して、思いっきり関西での生活を楽しもうと思う。

 

 

あ、ちなみに余談ですが仕事はやはり東京の企業様とのものがほとんどです。

でも、チャットツールやWeb会議などを用いて回ってるし、むしろ「関西にこういうこと頼める人いなくてね」といった言葉をいくつもいただいているので、それほどネックにはならなそうです。

インタビューの力で叶えられればいいなと思うこと

「ライターさんって、カメラマンのように友達から仕事を依頼されることって少ないんじゃない?」

と言われて、たしかにそうだなと思った。

 

たとえば、カメラマンなら、個人のポートレートや家族写真の撮影の需要がある。

デザイナーさんは、カメラマンほどではないかもしれないけれど、たとえば個人事業主をしている友人がいたら、HPやチラシのデザイン・制作を依頼されるかもしれない。(※これは半仕事といわれればそうだけど)

それに比べると、ライターはなかなか一般に需要が少ないのかも。

 

けれど、インタビューや文章に、こんな活かされ方があってもいいのになって思う。

もっと広がればいいなって思う。

 

 

たとえば、自分史の振り返りに。

その人のそれまでの人生をインタビュアーが掘り起こし、記事にする。

話すことによって自分のこれまでを振り返りこれからを考えてもらう。

迷ったときに読み返したり自分の節目にアップデートしてもいいし、自己紹介に使ってもらってもいい。

 

たとえば、結婚の記念に。

2人の馴れ初めから普段はなかなか言えないお互いへの感謝の気持ちまで語ってもらい、記事にする。

お互いへの想いを再確認するきっかけにしてもらう。

毎年、結婚記念日に読み返してもいい。

 

たとえば、生まれてくる子どもへのメッセージに。

命がお腹に宿った一番幸福な時期に、親から生まれてくる子どもへとっておきの愛情を伝え、記事にする。

子どもが物心付いたとき、あるいは将来子どもが何かに悩んだときに見せてあげて、

「あなたは目一杯の愛情に包まれて生まれ育ってきたんだよ、いつも見守ってるから大丈夫だよ」と証明してあげてもいい。

 

たとえば、人生の記録に。

年を取り、死期が近付いたとき、自分の足跡を噛み締めながら語ってもらい、記事にする。

本人からの依頼でも、家族からの依頼でもいい。

一人ひとりの人生には、それぞれ喜怒哀楽の詰まったドラマがある。

振り返っていく中で、感謝を伝えたい存在が何人も浮かぶかもしれない。

記事を見た子どもや孫・友人は、数え切れない幾つもの思い出とともにその人のことをずっと覚えていてくれて、恋しくなったそのときはそっと文章を読んでくれるかもしれない。

 

 

こうして書き起こしつつも、まだまだ言語化できていない部分がたくさん。

でも、おいおい私が取り組んでいきたいことだなあという気がしている。

なんとなく

なんとなく。

 

それは、一番ぼんやりしてて、不可解で、でも一番確かな感情。

私の中で意思決定するときに「なんとなくいい」「なんとなくいやだ」は結構重要なポジションを占める。

 

100%自分の気持ちに素直にはまだ生きられていないから、

なーんとなくいやだなあと思っても、言い出せずにいることがある。

踏み切れずにいることがある。微妙な気持ちを抱えてやってしまうことがある。

ある意味それは、年を重ねるにつれて身につけてしまったしなくていいことなのかもしれない。

 

けれど、なんとなくいやだなあと思うこととは、

遅かれ早かれ別れが来る。

私のどっちつかずな行動なんて簡単に追い越すくらい強烈に、

「ほら、最初に伝えたでしょ。違うって」と言わんばかりにカードを差し出してきて、

「ああ、やめよう」「やっぱり違うな」と諦めざるをえないような訴えをしてくる。

 

もちろん逆もある。

理由などわからず、「なんとなく」プラスに心が動くことがある。

なんとなくやってみたい

なんとなく好き

なんとなくこっちな気がする

それらは、ほぼ外れたことがない。

「本当にこれを選んでよかったな」「飛び込んでよかったな」

過去を振り返ったとき、そう思えることばかりである。

 

直感が一番ロジカルで確かだと、私は思う。

彼らは、過去のいろんな体験を総動員して、

私にとってそれがいいのか悪いのか、

向いてるのか向いてないのか、

本心なのか邪心なのかをいつも教えてくれているのだ。

 

大人の事情で直感がYESと言わないことを選んでしまうことは今後もあるかもしれない。

すべてを断れるほどまだ意志も芯も強くない。

けれど、せめて自分の直感が指し示したものには全力で向かっていきたいと思うんだ。

 

私だけの水槽

「さあブログを再開するぞ」と意気込んだものの、いざとなると何を書いたらいいのかわからなくなる。

しばらく書いてなかったから、大学時代のように思いを垂れ流すことにも少し抵抗があり、とりあえず書き始めようとならない。(いや、まさに今は垂れ流しの最中だけれど。)

短編の物語を書こうかなと思ったけれど、創作は自分がやりたいことの一つでもあるので、万が一億が一いいものが書けてそれを堂々と公開したものを、偶然見つけた人にパクられてその人が賞を掻っ攫っていったりしたらやりきれないからやらない、別で書く笑 被害妄想ひどいし自意識過剰だな笑

あといくつかアイデアはあるけれど、まあおいおいかな。

ライティングの仕事をするようになって、まだまーだひよっこだけど、感じることがいろいろある。とりあえず、生きてる感は会社に勤めてたときよりほとばしっている。楽じゃないけど、その分感じる生きてる感。いいことも悪いことも嬉しい感情も悔しい感情もまるまる感じてる感ですよ。「人生感動したい」欲の強い私にとってはイイ感じだなと思います。ただ、土日関係ナシに仕事しちゃうし結構疲れも溜まりやすい体質だし最初は変に気が張ってて余計披露蓄積しやすいと思うから、今年の残り2ヶ月は基盤づくりくらいの気持ちでいきます。

で、そうそう。ライターの仕事って、好きなことを好きなように書くことじゃ決して無くってね。求められることを書く。読まれる記事を書く。読み手に届く記事を書く。それが、何より大切なわけで。

だからこそ、こっちのブログではなーんにも考えず、自分の気の向くまま、綴ったり表現したりしようと思う。自由に泳いでいい水槽だからね、ここは。

そんな感じで気ままに更新していきます。

目指せ週3以上くらいの更新。

ではでは。

ライターになります。

大学3年の10月に、ボイスレコーダーを買った。

安くて雑音もすべて均等に拾ってしまう、決していいレコーダーではなかったけれど、こいつは私の相棒となった。

何か自分で生み出したいと思い、友人100人以上にインタビューをしてブログに記事を書かせてもらう活動をした。相棒は大活躍だった。

 

そして、今わたしの手元には新しいボイスレコーダー2号がある。これは職場の先輩方から、餞別にいただいたものだ。

 

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10月末を以て、新卒から3年半勤めたWebマーケティング関連企業を退職した。

在職中はインサイドセールスを主業務としながら、自社ブログ記事の執筆(22記事書かせていただいた)や取引企業様への取材活動(こちらも8件担当)などに挑戦させてもらった。これも「学生時代の話ですが、友人100人以上にインタビューしたことがあります。記事を書かせていただきたいです。」なんて、ブログ担当の方に自己紹介したことから始まったから、なんでも言ってみるもんだ。

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子どもの頃から、小説家を中心に書き手への憧れがあった。

小・中学校時代は、毎日学校から帰宅して宿題を終えた後は夢中で小説を書いていて、賞に応募したりもした。

高校時代は受験勉強と部活に忙しく書くことから少し遠ざかっていたが、大学に入って個人的な思いを綴るブログを始めたことでまた書く楽しみを思い出した。

そして大学3年のとき、所属していた団体を引退し「一人でできることで、自分のスキルを高められるものに取り組みたい」という思いから、友人へインタビューしてその記事を自分のブログにアップする活動を始めた。

1日4件インタビューする日も、1日10,000字程度の文字起こし+記事作成×2みたいな日もあったけれど、とにかく楽しくて楽しくて疲れも忘れてのめり込んでいた。そうしてるうちに、いつのまにか100人以上の友人を取材させてもらっていた。

就職して執筆とは関係の無い業務を行いながらも、書くこと・伝えること、そして新しく知った「人の物語を聴くこと」の楽しさは私の心の中でふつふつと炎を燃やしていた。その後、ブログ執筆等のお手伝いもさせていただくことになり、業務量は増えつつも充実していた。

 

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去年の8月、私は25歳の誕生日を迎えた。

そのときくらいからだろうか。自分の中で現状への焦りとこのままではいけないという気持ち、そして自分がどういった分野でスキルを伸ばすのかを改めて考えようという思いが沸き上がってきたのは。

色々と考えたり人と話したりしてみたが、やはり浮かんでくるのは書き手としてスキルを高めたいという選択肢。その勢いのまま、編集・ライター講座に申し込み半年間通ったりもした。

「ライターとして転職先を見つけよう。」

そんな思いから活動を開始していた。

編集者の求人はまずまず見かけるが、ライターの求人(正社員・契約社員)は少ない。

見つけたものの多くが事業会社(多かったのは人材系や医療系)のライター。

つまり、求められるのはそのジャンルに強い(今後特化していける)ライターだった。

 

私の興味関心・得意不得意が明確にわかっていたら迷わず応募していただろうが、そこまで自分の目指す輪郭はくっきりとなっていなかった。これは正直今もだ。

だからこそ、今はしがらみを感じずに自分が興味を持った案件に幅広くチャレンジする機会が必要だと感じて、フリーという形態を選ぶことにした。

もちろん、これから色々なお仕事や経験をする中で、形態も興味もどんどん変わっていく可能性はあるし、それでいいと思っている。

 

いばらの道だとは思うが、酸いも甘いも糧になると思うと言い聞かせて。

すでに不安いっぱいだけど(笑)

 

まあ、そんな感じでこれから未知に踏み込みおそらく悪戦苦闘だらけの仕事の息抜きのためにも、無理ないペースでこちらのブログは更新していこう。

ここでは、好き勝手に、素直な言葉をただただ紡ごう。

感性は知らない海に私を連れてってくれる

なにかを選ぶときや決めるとき、どうしても今の延長線上での選択や決断しかできなかったりする。

「将来から逆算して」とか「◯◯の目的のために」と言っても、その将来やその目的は今の自分から生まれてるものだ。生まれてる〝だけ〟のものだ。

 

4年前、就職活動をしているとき、私は人材系の企業に行きたくて、その業界の企業ばかり受験していた。それまでの自分の22年間の中で、よくも悪くも「働くこと」について考えざるをえない状況が多くて、問題意識と関心を一番持っていた分野が働くことだったから、「働く」に一番近くで関われる人材系の企業を志望するのは、当時の自分にとって自然な流れだった。

 

人材系の企業の採用シーズンは早くて、他の就活生がエントリーシートを提出しているときにすでに面接ラッシュだった。が、ことごとく、びっくりするぐらいこっぴどく落ちて落ちて落ちまくった、あっさりと。

3月末の時点でほとんど〝持ち駒〟が無くなってしまった。これはまずい、と一旦業種の縛りを解いて色んなところにエントリーシートを出しまくった。そんなとき、とある方の紹介で、なんだか面白そうな企業に出会った。正直何の事業をしているのかはリクナビの文や会社概要をよく読んでもわからなかったけど、とりあえずエントリーシートを出したら通り、面接に行ったら自分を偽らずに気持ちよく話すことができて、そこで働く人ともうまが合い、、、みたいなことが続いて、縁合って内定をいただいた。正直、内定をいただいたときも何の会社かよくわからなくて「IT系」としか認識してなかった。

そういった経緯があって働いているのが今の会社だ。クラウドサービスのベンダーであり、企業のWebマーケティング活動を支援している企業。そこで半営業・半マーケ的なことをさせてもらっている。

 

この業界に飛び込んだら、いやでもマーケティング系の言葉(だいたい横文字)に囲まれる。最初はとんちんかんで議事録を取るのも精一杯だったし常に検索してたけど(インターネットって便利!)、さすがに4年も働くと知らない言葉はかなり減ってきた。それに、デジタル(Web)への関心やアンテナも少しは高くなったとは思う。(もちろん、会社では底辺レベルだけど・・・笑)

 

あのとき私は、人に惹かれて、直感に動かされて、導かれるように今の会社を選んだ。

その結果、きっとこの業界にこなければ興味のカケラも湧かなかったことに触れているし、そこに面白みを感じている。「苦手分野だし、私はアナログ人間だからこの業界では無理」と頭で判断を下してこの選択肢をとっていなかったら、また違う道を進んでいたんだろう。 

 

好きなことや得意なことだけをとことん極めるのも素敵だと思いつつ、「不意に迷い込んだ街で過ごすうちにその街が好きになっていた」的な、予想外の迷子っていいなあと思う。 

今の得意不得意好き嫌い経験を活かせるかどうかだけを判断軸に、頭で下す判断はいつだって自分を半径5mから連れ出してはくれない。まだ知らない世界を見たい私は、心に判断を委ねてもう少しプカプカ浮かんでみようと思う。

【About you】♯104 おといさとこ

 

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■Basic Data

名前:おといさとこ

生年月日:1976年7月25日

 

■Interview

―まずは現在のお仕事について教えてください。

旅行関係のパンフレットを制作する仕事をしています。旅行プランの情報をまとめたり、コピーを書いたりといったことですね。転職して5ヶ月なのですが、前職は旅行系の広告代理店でのお仕事だったので、今制作しているようなパンフレットを企画・編集するお仕事でした。やりがいはあったのですが、今の仕事の方が自分には合っている気がしています。それに、前職時代はとても忙しくて土日もずっと仕事のことで頭がいっぱいだったのですが、転職して以前より時間に余裕ができて、ブログを更新したりと趣味を満喫できています。

blog.goo.ne.jp

 

―なぜ転職しようと思ったのですか?

今は正社員で雇ってもらってるのですが、前の会社では契約社員だったんです。もともとは短期の派遣で入って、そこから契約社員になりました。正社員採用試験を一度受けたのですが結果はダメで、「年齢的にも、正社員を目指すのであれば課長になってくれないと」と言われていました。課長になったら、パンフレットの制作には携わりません。やることは、社員の管理だったり数字をはじいたり。苦手意識を持っていたなりに通信教育を受けたり色々経営関係の勉強に手を出してみたのですが、どうもしっくりきていませんでした。そんなときに、ドラッカーの本を読む中で今までの自分のキャリアの棚卸しや目標について再度考える機会があったのですが、それをする中で「やっぱり自分がしたいことはこっちじゃないな。制作側でいたいな」と感じたんです。そんな時、祖母の介護問題が起きて、前職の仕事との両立の難しくなり、退職させていただきました。

 

―私がおといさんに出会ったのは「編集・ライター講座」を通じてですが、ということは、ちょうど転職前後の時期から講座を受講されてたのですね。

そうなんです。色々迷っていたときに、「再就職するにしても、クリエイターで仕事したいなら何かしら準備をしておかないと!」と思った一環で申し込みました。実は、受講料を振り込んだ翌週には転職先が決まったのですが(笑)、転職後はライティングをメインでやるので良い勉強の機会だと思いました。特に講座の中で役に立ったのは、Webライティング系の講義です。今までも今も関わっているのは紙媒体ですが、Web媒体にはとても大きな可能性を感じていたので、学びが新鮮でしたし、授業で習ったことは早速ブログにも取り入れています。あとは、印刷系の講義ですね。とてもわかりやすく解説してくださって、前職時代からの謎が解けてとても感動しました!

 

―書くことは昔から好きだったんですか?

はい。幼稚園の頃から自分で物語を書いてました。あと、小学校のときに、自分で物語を作ってクラスで発表する授業があったんですが、そのときに先生がすごく褒めてくださったのも嬉しくて余計ハマっていった気がします。それからも、中学のときは小説を書いてクラスメイトに読んでもらったり、高校では文芸部に入部して小説や詩を書いたりしていました。

あと、うちの高校では文化祭的なイベントの中で演劇をしなきゃいけなかったんですけど、そこでは脚本を担当しました。私はもちろん、役者をしてた子も人前で演じることに楽しみを覚えてしまって、卒業してからもOB・OG枠で出演し続けていました(笑)

 

―それはすごいですね(笑)乙井さんは脚本家を目指してたんですか?

実は目指していたのは演出家だったんです。受験が迫って進路をどうしようかと考えたときに、演出を学べる学校が東京の私立大学しか無くて、親には「国公立大学しか行かせられない」と言われていたので諦めていました。けれど、結果的に国公立に受からなかったので、必死にプレゼンテーションして(笑)、地元・大阪の芸大の文芸学科へ進学させてもらいました。そこなら戯曲なんかも習えたからです。

  

―演出家を目指したのはどういうきっかけからだったんですか?

高校1年生のときに、宝塚歌劇団の「華麗なるギャツビー」を観劇して、そこで「こんなかっこいい舞台が作れるのか!」って感動したんです。原作を読んでから観に行ったのですが、原作ではわかりづらかったことがすごく壮大になりながらもわかりやすく表現されていたし、何より舞台の転換がすごくかっこよくて(笑)それが演出に興味を持ったきっかけです。

 

―ロンドンに留学されてたことがあると伺いましたが、それも演出の勉強をするためだったんですか?

そうですね。大学に入ってからはとにかく海外の舞台を観たくてしょうがなかったのでバイトしてお金を貯めてはブロードウェイかロンドンに行っていました。その中でやっぱり海外で演劇の勉強がしたいと思うようになったのですが、金銭面などの事情もあって「一旦就職して3年間お金を貯めて飛ぼう!」と決意しました。結果、1年半で早々と辞めてしまうのですが(笑)

 

―なぜブロードウェイではなくロンドンだったんですか?

すっごく迷ったんですけど、「シェイクスピアが好きだったから」という格好付けた理由と、ロンドンの街への憧れが強かったからです。あとは、紅茶文化の国だから。私、珈琲飲めないので(笑)

 

―なるほど(笑)ロンドンではどういった生活をされてたんですか?

まず半年間語学学校に通って英語を勉強しました。その後は舞台の裏方の勉強をしたかったんですけど、留学に行く前に日本の留学専門の会社に聞いても「パフォーマンスの学校は紹介出来るけど裏方の専門学校は無いですよ」って言われていました。けれど、ロンドンに行って、よく舞台を観に行っていた劇場で手に入れた演劇専門の新聞の中に演出やステージマネジメントの勉強ができる専門学校の情報が載っていたんです。予算にも見合っていたので行ってみたら、生徒がたった3人の個人レッスンでしたが(笑)、そこに入って国籍の違う子たちと一緒に勉強をしていました。で、先生と仲間とで「ロンドンの小劇場で芝居をかけよう」となったんです。人数が足りないので、オーディションをして人を集めて動き出しました。私は制作的な立ち位置で動いていたので、稽古場やパブシアターを予約したり、チラシを発注して集客したり、当日は受付から小屋掃除から照明・音響までやりました。その準備期間の中で、先生が演出を付けている様子を近くで見ていて、「役者ができないと、演出はできない」って突き付けられました。役者に動きを付けるのも演出家の仕事なので、セットの転換は出来てもそっちは無理だなあと思いましたね。でも裏方として演劇に関われることにはとても幸せを感じていました。

そんなときに、「今やってる芝居をエディンバラのフリンジフェスティバルにかけるから一緒に行かない?」って誘いを受けました。スコットランドの首都エディンバラで約1ヶ月間にわたって開催される世界最大の芸術祭なので、もちろん行きたくて行きたくて。でも航空チケットの関係で一度日本に帰国しないといけなかったので、「稽古の時期に合わせて戻ってくるね」と約束して帰国してから数ヶ月間、再渡航のためにお金を稼いで、ロンドンに戻ってきたんです。で、「さあこれから稽古が始まるぞ」って時期のある日、母親から電話がありました。「おかしいなあ、どうしたんだろう」と不安に思って出てみると、「お父さんが末期がんで余命3ヶ月なの」と告げられたんです。ロンドンに戻ってきた直後のタイミングだったので迷いましたが、日本に帰ることを決めました。

 

 

―そのタイミングで、、、色んな葛藤があったでしょうね。

はい。そういった経緯があったので、帰国してからも「いつかフリンジフェスティバルに行くこと」が夢だったんです。だから身軽で居れるようにと正社員にはならず派遣で働いていました。そんな日々が2年ほど続いていたある日、インターネットサーフィンをしていると、かつて通っていた演劇学校のホームページを見つけました。学校からいつのまにか劇団になっていて、そこには「今年、またエディンバラに行く」って書いてたんです。すぐに先生にメールを送ってみると、「ぜひ来てくれ。大歓迎だ!」と言われて再度ロンドンに渡りました。そして3週間稽古に合流した後にみんなでエディンバラに行きました。毎日3本ほど公演をかけるのでかなり体力が必要だったし大変でしたが、芝居に浸れている幸せを感じる日々でした。しかも、同じ演目なのに、入るお客さんの雰囲気や反応によって、芝居が変化するんです。あるときは涙涙の舞台になったり、あるときは笑い声が絶えなかったり。そんな舞台を近くで観る中で、「お芝居は生ものだな」と感じました。

 

▼フリンジフェスティバルで出番待ちをしている女優陣

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▼フリンジフェスティバルでのチラシ

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―「お仕事として演劇をしていこう」とはならなかったんですか?

日本より演劇が根付いたロンドンにおいても、演劇関係の仕事だけでごはんを食べていくのはかなり厳しいんです。フリンジフェスティバルが終わったときは28歳になっていたこともあって自分のこれからを考えたときに、「演劇の世界に飛び込んで、好きなことはしながらもあまり稼げずお洋服も買えない自分」と「そこそこお金を稼いで、バーゲンのときくらいは服を思い切り買えるような自分」を両方想像してみたときに、後者がいいなと思っちゃったんです。おそらくフリンジフェスティバルでやりきっちゃって演劇に対する情熱も燃え尽きちゃったんでしょうね。ちょうどそのときに、渡航少しだけ派遣で働いていた会社の社長から「人手が足りないから帰ってきたら手伝ってほしい」と頼まれたので、帰国して就職することに決めました。

 

▼最後にロンドンに行った際、公演していたパブシアターの下のパブでの写真

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―日本に戻ってきてから、後悔とかもなかったですか?

やっぱりやりきれたので、後悔とかはまったく無かったですね。好きなことを思い切りできてよかったです。帰国したらしたで、mixiコミュニティを通じて「RENT」(リンク貼る)ファンの友人と出会ったりして、人生が大きく広がりました。彼らとは、今はときどきミュージカルライブを企画して公演する仲間になっていて、その中で私は訳詞を担当しています。

 

▼ライブグループのブログ

ameblo.jp

 

―今後、やってみたいなと思うことはありますか?

大きいことになっちゃうし、自分がどうにかする!って意欲があるわけじゃないんですけど(笑)、日本の小学校に演劇教育が導入されたらいいなと思っています。実は、先進国で演劇が芸術科目に取り入れられていないのって日本だけなんですよ。私はロンドンと日本、両方の劇団のお手伝いをしたことがあるんですが、演劇のスキルが全然違うんですよね。その理由の一つは、ロンドンの演劇関係者は皆演劇の専門学校を出ている一方で、日本の演劇に出ている役者さんって、特にミュージカル界では声楽家ダンサー出身の方が多いので、演技が二の次になってしまってる状況もあったりします。それに、知識量も全然違います。日本って、演劇の役者さんでも戯曲を読む習慣がある方は少ないのですが、ロンドンではオーディションを控えた役者の間で「次のオーディションでは、この戯曲からここの一説を演じようと思うんだ」なんて会話が飛び交っているんです。日本の演劇の質が向上するためには、やっぱり役者が増えること、そして観客も増えて観客の目が肥えることのどれもが必要だと思います。小さな頃から演劇に触れられる環境があれば、自然と演劇に興味を持って、演じる側・観る側になってゆく子が増えると思うんです。

 

願うのは、それくらいかなあ(笑)

私、長生きしたくないんです。生きて、病気になったり、お金に困って生活が困窮するのが怖いから(笑)

猪突猛進型で、「やりたいと思ったことはとりあえずやれ!」「やって後悔とやらない後悔だったらやって後悔」をモットーに、好きなことばかりしながら生きてきたので、思い残すことがないんですよね。この歳だから言えるだけで、60になったら生にしがみついてるかもしれませんが(笑) まあ、生きている以上は、「やってしまったなー!」って後悔をまだまだしていきたいですね。

 

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 ■My note

編集・ライター講座で出会ったおといさん。講座の中のワークで自分のことを話す際に「長生きしたくない!」「人間に尊厳死を!」と言っていてとても驚いたことを覚えている。というのも、これまで、このインタビューは同世代にすることが多かったこともあって(しかも、社会に出る前の夢に溢れた大学生たち)、皆両手で数えきれないくらいの夢を持っていたし、それらすべてをやり遂げるにはいくら長生きしても足りない!という感じだったから。

でも、今回お話を聞いてわかった。おといさんは、本当に自分に正直に、納得できる道をそれぞれの分岐点で選んできたからこそ、そう言えるのだと。長生きしたくない、と言うとインパクトがあるけれど、いつ死んでもいいと思えるくらい後悔の無い、最高に気持ちのいい生き方をしているのだなと思った。